ロバート・B・パーカー「失投」
- 作者: ロバート・B・パーカー,菊池光
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1985/10/01
- メディア: 文庫
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「いいか、個人であるということは、謂わば奔放で恣意的なことなんだ。その点は君も気付いているかもしれん。だから、その度合いが過ぎて手に負えなくなるのを防ぐために、人は何かを信じる必要がある」
<ダブルスタンダートの苦悩にまつわるマッチョイズム スペンサー>
本の感想を書かなくなってから読書スピードが激減しました。「他人に見られるからこそ人は日常を演出することができる」とは蓋し名言ですね。いや、私の言葉なんですが。
というわけで、今日読み終わった本の話でも。
スペンサーシリーズ初読。
なぜかこの作者の話を、「ダブル・スチール」みたいな野球をメインにしたミステリが多いのだと勘違いしていました。表紙のせいだな。
内容はハードボイルド、私はハードボイルドを見る目がこれっぽっちもなく、「ハードボイルドという、生き様。」的なものが小揺るぎもしないタイプのクールなタフガイ的アメリカ探偵にあまり魅力を感じないので*1、今回も「なんかよくメシのシーンが出てくるハードボイルドだな、コーンウェルの作品みてえ」という感想しか抱けず云々。
事件の構成も「聞き込みによる手がかりの追跡→脅迫者のとっちめ」という探偵の王道的なものなので、ミステリ的に印象に残る場面もなし。
ただ、アクションシーンで二人のならず者を殺害してしまった件について、恋人とディスカッションする最後の数ページは面白かったです。ていうかここが書きたかったんじゃないのか、と思うほど。
と思っていたら解説でも書かれていました。読者の後だしをする解説はいかんな。いや、申し訳ない。図に乗りました。
そろそろ穴倉から這い出してくる時期か
不義理をしている方々に重ねて申し訳ない。
それはさておき、今日で14連勤めだったように思う。
始業から終電までフィーバー。なんとなく疲れてきたような気がするが、別にへいき。
ノベリストバトン
ぅおーーーい、もう一ヶ月以上も書いてないよ! いくら何かと忙しかったからといって放置にもほどがある!
とりあえず溜まった本の感想でも放出していけたらいいですね。希望は希望であり未定です。
潮実綾苑さんから回していただきました。ここから直リンするのはバイヤーなのでどうすればいいのか。
>あなたの書く文章は難しくて、けれどインパクトがあって考えさせられるよ朝井さん。
それは時に、書いてる本人が一番意味が分かっていません。ありがとうございます。
・小説を書いてどのくらい?
10年ちょいぐらいでしょうか。解りません。
・処女作はどんな話だった?
どれが処女作だったのだろう…。恐らくこういう場合の処女作というものは、初めて完結させたもの、と定義した方がいいでしょう。何せ中学時代の朝井はアホほど厨設定と厨文を量産しておりましたので、記憶が曖昧です。
確か複数の己と対話する話。主人公の自己言及的な臨死体験の話だったような気がします。これ以上詳しく説明すると私が憤死します。
・どういった話を書くことが多い?
二次創作なら軽いヤンデレ。
一次創作は最近めっきりやってませんが、とりあえずギャルゲーを意識した話。
私の創作原理には常にギャルゲー文法が付きまとい、決してそこから逸脱した作品を書くことはできません。
・プロット(構成)は立てる派? 立てない派?
立てる時もありますが、立てたからといって書き終えるわけではありません。
・視点は一人称(主観的)と三人称(客観的)、どちらが多い?
一次創作なら一人称。何せ楽なもんですから。
二次創作なら三人称。どっちの感情も書けて便利なのですが、パラグラフごとに視点を分けているために苛々してきます。
・長編体質? 短編体質?
消去法で短編体質。
長編で書き上がったものは一つとしてありません。
・今までで長編、短編合わせて何本書いた?
散文を書き散らすクチなので、今まで書いたやつを全部覚えていたとしても数えることはできないでしょう。
・今まで書いた話でお気に入りを3つ。
つってもなあ。
ここでタイトルを言うってことは、要するに、あれだ、挙げたやつを参照できるっていうのが条件ですよね。
それを除いても、一作たりとも気に入ったものはありません。基本的に大抵のものはゴミバコに遠慮無く捨て、パソコンのものは削除削除、フロッピーが使えなくなろうと、ハードディスクがイカれようと全く気にしません。
だってどれも面白くないし読み返すと寒いし、それを快感とできるほど私はマゾではありません、むしろサドだ!
・話を書くにあたって、自分なりのこだわり、ルールは?
あるって言ったら、何だか偉そうですよね。
・書いている時はBGM有り? 無し?
以前まではありましたが、今は無し。だって台詞回しが歌に引っ張られるもので。
・これから挑戦したい話や世界観、目標等。
特にありません。書きたい時に何か書きます。
強いて言うなら、世界観の狭い自己言及から脱却したい。私は十年かけてもただの主人公の独り言からストーリーを進展させられないのが情けなくて堪りません。
あと、本読み属性を獲得してからこちら、「自分でないと書けない話」なんてものは存在しないし、「自分ならもっとうまく語れるだろう」という物語もなかなか存在しない、ということを骨身に感じるようになり、オリジナリティがほぼゼロな自分の無力感に打ちひしがれています。当面はこの無力感から脱却することが目標でしょうか。
しかし最も乗り越えるべきことは、私には表現したいことも、怒りも、執念もないという絶望かもしれません。
・憧れる作家さんを3人。
これはバトンの内容から、書き手として憧れる、でいいのでしょうか。
スティーヴン・キング、東野圭吾、あとジャン・ヴォートラン。
前二人は自分から出るものを自由自在にコントロールできる感動もののエンタメ神。ヴォートランはとても絵画的で映画的で、適度なイカレ分を与えてくれます。
ベスト3には入りませんが、ロバート・ゴダードの緻密さ、ドナルド・E・ウェストレイクの軽みなんかもかなり真似したい所存です。
・次に回す素敵なノベリストを5人。
我こそはノベリスト、という方は持って行くがありがとうございます。
色川武大「百」
- 作者: 色川武大
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1990/01/29
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父親が死んだら、まちがいの集積であった私の過去がその色で決定してしまうような気がする。誰に対してまちがっていたのか、何がまちがっているのか、それすらも正確にはわからないが、とにかく、身幅の中だけに埋まり、内心の納得だけを頼りにここまできて、錯誤だけが堆く積ってしまった。私のこれまでの日々はただそれだけの長い時間だったが、それでも何とか、断罪だけは回避したい。
<おやじ、死なないでくれと念ずる、自分のために 『永日』>
土砂降りの日に持っていったらえらいことになりました。申し訳ない。
川端康成文学賞受賞作所収の短編集。
短編集といっても、同じテーマを扱った連作的私小説で、連作集と言った方が正解かも解りません。
コンプレックスの塊である主人公が、規範である父親を畏れたり離れてみたり、喪失を怖れても何もできなかったり、いわゆる「父と子」の関係を描いたにしては、憎悪とか勝敗とかそういったものから無縁な描写が非常に新鮮でした。
規範としての父に対する息子の心象として、こういうのがあり得るんだな。ダメ人間というキャラクターはまだまだ計り知れないものがある、と無駄に感動してしまう始末。
これは何度か再読してしまうでしょう。
- 『連笑』
一発目はおやじはあまり関係なく、弟との話。すんません、萌えました。だって、嫁さんに逃げられた弟のために飯を作ってやって家事をやってやって、それでも生活スタイルに食い違いが出てきて、結局別居しようということになり、最後に二人で旅行しようとか、一体この筋は…。何だろう。もう。
- 『ぼくの猫 ぼくの猿』『百』『永日』
おやじ三連作。教育パパによる抑圧編、立場の逆転による困惑編、規範の喪失危機による焦燥編。あ、こうして分割すると綺麗に時系列順に並んでいるんですね。道理で読みやすかった筈。*1
*1:こうやって整理していかないと、こんな当然のことにも気づけないね
目黒孝二「活字学級」
- 作者: 目黒考二
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1997/08/01
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自分語りと本の紹介は相性がいいのかどうかについて。ついても何も、そのことについて語るつもりは微塵もないのですが、書いてみただけ。
基本的に私は、こういったインデックスのついたタイプの作品紹介エッセイは全く読んだことがないので、さりげなくどきどき初体験。
で。
率直な感想としては、著者は非常に羨ましい人だと感じました。
「そういうわけでそんな気分なわけだが、こういう気分の時はこのタイトルのこういうシチュエーションには考えさせられる」というのが大方の流れですが、よくそんな例示がぽんぽん出るな、と。
200冊近くタイトルが挙げられた中で、私が読んだことがあるのはほんの30冊程度なのですが、「そんな感じ方はしなかったな」「もっと他のところに気を取られたがこの人はよく見てるな」「むしろ表紙カバーの絵しか覚えてない」などとダメなことしか考えつかず、たった1500冊程度の読書体験で大抵の小説の内容の大方を忘却している自分自身に絶望した。
最早おしまいです。もうしわけない。何もかももうしわけない。
恐らく、そういったシーンの機微に目を届かせるには、そのシーン一つ一つを拾って、「お、この感覚には覚えがあるな」とか「この感覚はこういうことではないのかな」と自分の個人的シーンとふれ合わすことが必要なのでしょう。そうして印象に残りやすくなる。
読書体験はあくまで読書の体験であり、リアルの体験とはまったく違う。やはり、本を細かいところまで楽しむには、リアルでの経験が問われるのか。
内向的な趣味を選択して尚、ある程度の外向性を求められるとは。人生はまったく優しくない。
以上、自分語りと本の感想をやってみる試みでした。ちっともよろしくない。
語り口も視点も嫌いではないんですが、基本的にいわゆるブログっぽいというのか、ネット記事のようなサラリ感があって、楽しむにはそれ相応の読書経験値が必要っぽい気はしました。まあ、そんなもんなくても大丈夫っちゃ大丈夫なんですが。なんだろう、この脅迫感。
渡辺容子「左手に告げるなかれ」
- 作者: 渡辺容子
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- 発売日: 1999/07/15
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「右の手でよいことをしても左手には教えるな。これはたぶん、よいことをするのはむつかしい、でもよいことをしたあとで、これを自分の胸にだけしまって誰にも話さないでいるのはもっとむつかしい。こういう教訓ですな」
<マタイ伝第六章、山上の垂訓について 源老人>
江戸川乱歩賞受賞作。
万引犯を捕捉する保安員の女性が主人公のミステリ。と言うとなんだか日常モノっぽいですが、普通に長編のミステリです。
序盤では主人公の保安員っぷりに、中盤では被害者の女性の偽善者っぷりや右手とは何だったのか、みたいな謎を追いかけていてとても刺激的だったのですが、正直結末には期待ハズレでした。
結局主人公が保安員として主婦に対して抱いていた複雑な気持ちや、被害者の偽善者っぷりや、右手の謎*1やらが全部うっちゃられた結末には正直「え、これでいいの? この物語はこの方向でいいの?」と思ってしまいました。
そもそもの謎の発端が「ダイイングメッセージ」という、面白くする難易度が高い題材でありますし、そこいら中に『これがヒントですよ』みたいな符丁を仕込みながらも、真相に気づかせない*2手腕は結構なのですが、せっかくいいタイトルなのに、そのタイトルの意味が結末に特に関係ないっていうのがなあ。
徹頭徹尾、左手と右手が関係する物語であってほしいと思うのは、やっぱり私が頑固だからですかね。